[第3回] 「天正遣欧少年使節」をめぐる人々
ヴァリニャーノ神父が発案した「天正遣欧少年使節」。
彼らはスペイン・ポルトガルの王様とローマ教皇に会うためにヨーロッパに旅立ちます。
しかし当時の彼らはティーンエージャー。
さらに修道士でも司祭でも無い、セミナリヨの「学生」。
個人的に「海外とか興味あるんで、行きたいッス!」と希望して、それが叶えられたというわけではもちろんありません。
九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、ヨーロッパに向かったのです。
【名代】[みょう‐だい]
ある人の代わりを務めること。また、その人。代理。
…ということで、大名の代理人となるにふさわしい、れっきとした理由があって4人は選ばれました。
今回は、その大名たち。大友宗麟・大村純忠・有馬晴信はどんな人物だったのか?
第3回は、その3人の大名の紹介を致します。
◎大友宗麟(おおとも・そうりん)
まずは大友宗麟さん。
豊後(大分県)を治めていましたが、最盛期には九州六ヶ国まで領地を拡大していました。
布教のためにやってきた宣教師のフランシスコ・ザビエルと会い、領内での布教活動を認めた大名です。南蛮貿易を積極的に行い、外交に長けていたとも。
お名前は大友義鎮(おおとも・よししげ)で、宗麟は法号。
仏門に入った人が授けられるお名前です。
当初は禅宗に帰依していましたが、後に洗礼を受けて「ドン・フランシスコ」と名乗るようになりました。
キリスト教への関心が強く、「キリシタン王国」なるものを建設しようとしていたといわれています。
大友宗麟の名代は、筆頭使節である伊東マンショ。
マンショのおじいさん、伊東義祐(いとう・よしすけ)は日向(宮崎県)伊東氏の大名。
その次男・義益のお母さん・阿喜多の叔父さんが、大友宗麟。
大名の血縁者であることも、マンショが名代として選ばれた理由でした。
◎大村純忠(おおむら・すみただ)
大村純忠さんは、長崎県大村市周辺を統治していました。
長崎港を開港した大名です。
港を探していたポルトガルの船に自領の横瀬浦(長崎県西海市)を提供し、同時に宣教師に対しても住まいを与えたりと便宜を図りました。
その1年後に純忠は家臣と共に洗礼を受け、キリスト教徒になります。
その理由として、ポルトガルとの貿易による利益のためだった、という見方もされていますが、洗礼後はキリスト教の教えを守ろうとする熱心なエピソードも多々残されており、領民にも信仰を奨励した結果、大村領内での最盛期のキリスト者数は6万人越え、日本の信者の約半数がいたという時期もあったとされています。
名代は、彼の甥にあたる千々石ミゲル。
◎有馬晴信(ありま・はるのぶ)
肥前日野江藩(佐賀県、長崎県辺り)の初代藩主。
洗礼を受けた後は熱心なキリスト教徒となり、秀吉が禁教令を出した後も多数のキリシタンを領土に匿っていたといわれています。
名代は晴信の従兄弟にあたる千々石ミゲル。
ミゲル、名代ダブルです。
名字は違いますが、有馬晴信のお父さんの義貞(よしさだ)の弟が、大村純忠と、ミゲルのお父さんである千々石直員(ちぢわ・なおかず)なので、ミゲルは2人の大名の血縁者なのです。
原マルチノと中浦ジュリアンはこの3大名の血縁者では無いので、副使です。
彼らが選ばれた理由も気になりますが、それはまた別の機会に。
3人の大名とも、熱心なキリスト教信者。
ヴァリニャーノ神父の企画に賛同して、天正遣欧少年使節を派遣したといわれています。
が。
天正遣欧少年使節が旅立つ前に計画を知っていたのは、実は大村純忠と有馬晴信だけで、大友宗麟は知らなかったという説もあります。
各地の距離を考えると、当時の情報伝達スピードでは書簡が間に合ったのか疑わしい…とのこと。
さらに、たどり着いたヨーロッパでも問題が。
「大名の甥」や「血縁者」という言葉が、当時のヨーロッパには伝わり辛かったのでしょう。
日本語からポルトガル語、ラテン語、イタリア語やスペイン語…と、様々な言葉に訳されていったので、まるで伝言ゲーム状態だったことが予想されます。
「大名」という言葉を単純に「日本の王」と訳されたり、マンショやミゲルのことも「息子」とざっくり訳されたことで、天正遣欧少年使節は「日本の王子様」として諸国に伝えられ、それが後に論議を醸し出したりしています。
天正遣欧少年使節の派遣を良く思っていなかった人がヨーロッパでの歓迎ぶりを聞きつけて、「彼らは王子様じゃないですよ!マンショとか貧乏だったし!」とチクる手紙がローマへ届いたりもしていました。
彼らの華々しいヨーロッパ道中の裏では、様々な人たちの思惑が飛び交っていたのです。
このお話も、また別の機会にて。


