[第5回] 「天正遣欧少年使節」を巡る人々~海外編2~
コラムのリクエストを下さった方々、ありがとうございます。
4人の性格や生涯については、次回紹介予定ですのでお楽しみに!
第5回は、旅の最終目的でもあった“ローマ教皇への謁見”エピソードを紹介致します。
「ローマ教皇」…カトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の指導者。
ローマで天正遣欧少年使節を迎えた教皇は、グレゴリウス13世でした。
当時、中世末期に起こった宗教改革によってキリスト教世界は大きく揺れていました。
教会体制を批判したルターによって、キリスト教はローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展していたのです。
カトリック教徒の指導者である教皇にとっては、悩みの多い時代だったことでしょう。
グレゴリウス13世は多くの神学校を設立して、聖職者育成に尽力していました。
そんな中、東の果てから「カトリック教徒」になった異国の少年たちがやってきた。
当時のローマから見て「日本」は未知の国でした。
東の国といえばインド辺りまで。
しかしそのインドよりさらに遠い場所から、自分たちと同じ神を信じるという少年たちが教皇に会うため、2年2ヶ月の歳月をかけてはるばるやってきたのです。
グレゴリウス13世は彼らを盛大に迎え、謁見の際には感動で滝のように涙を流したと伝えられています。
ローマ市内でも、天正遣欧少年使節たちは大歓迎を受けました。
教皇への謁見に向かった彼らの行列は「ローマでも未曾有(みぞう)の最大の行事」と記録に残されています。
鼓手が太鼓を打ち鳴らし、トランペットの音を響かせながらの大行進。
教皇の騎士団や枢機卿たちが真紅の衣をまとって整列し、ローマに駐在する各国の大使も華やかな装いで後に続きました。
行列がヴァティカン宮殿に向かう橋を渡る時には祝砲が何百発も鳴らされ、ローマ市民は大歓声を上げてその模様を見物したといわれています。
天正遣欧少年使節の3人は美しい和服姿で、優雅に帽子をかぶり、黄金で飾られた黒いビロードをまとった駿馬にまたがってその大行進の中心にいました。
想像するだけでワクワクするような豪華な風景です。
天正遣欧少年使節、晴れの舞台。
でも、3人?
そう、3人だったのです。
その場所に「急病を患った」中浦ジュリアンの姿はありませんでした。
この詳細は、彼ら4人のコラム回に。
そして感動的な謁見の後、わずか18日後に高齢であったグレゴリオ13世は世を去ってしまいます。
少年たちは大いにショックを受け、悲しみました。
教皇は大抵が高齢になって即位するため、ほぼ終身制でした。
グレゴリオ13世の晩年を最後に飾ったのが、天正遣欧少年使節だともいわれています。
(ちなみに2013年に即位した現・ローマ教皇フランシスコの先代、ベネディクト16世は719年ぶりに生前退位しています)
グレゴリオ13世亡き後は、「コンクラーベ(教皇選挙)」によって、新たな教皇が誕生します。
日本は「コンクラーベ」が「根比べ」に聞こえるといって話題になった耐久性選挙ですね。
ヴァリニャーノ神父はイタリアにいる時に「コンクラーベ」を間近に見る立場にあったので、彼の書き残した本にはその模様も詳しく書かれています。
群雄割拠、下克上だった戦国時代の日本を生きていた少年に、「選挙」という制度を伝えたかったのではないかとも。
選挙の結果、次に教皇になったのはシクストゥス5世でした。
治安を立て直し、バロック様式の建築物を数多く残した偉業で歴史に名を刻んでいます。
シクストゥス5世の戴冠式にも、ローマで人気者となっていた天正遣欧少年使節はVIPとして招かれました。
参加したのは、やはり3人。
…しかし、残されている戴冠式の記録とは別に、とある壁画に注目してみたいと思います。
教皇がヴァティカンの図書館を拡大して大広間を造った際、自身の即位式の様子を描かせた壁画。
新教皇が“3人の若いインド人”を伴って聖堂に向かう行列を描いたこの壁画の中だけには、天正遣欧少年使節だと思われる少年たちの姿が、4人。描かれています。
どの記録が本当なのか。
タイムマシーンが無い限り、歴史の真実はわかりません。
わからない分だけロマンがあるのが、歴史の面白さなのかもしれません。
そして2人のローマ教皇に謁見を果たした天正遣欧少年使節は、ようやく帰路につきます。
各イタリア諸国を回って歓迎を受け、再びスペイン・ポルトガルを通ってリスボンからインドのゴアへ。
そこで彼らはヴァリニャーノ神父と再会し、マカオまで戻ります。
その時、既に日本では「バテレン追放令」が発令されていました。
その後の彼らについては、また後日。


